アヴァンチュール
彼の存在そのものが冒険である。論理の限界にある偶然という危険にさらされた冒険の精神を持ち合わせているからだ。彼は異常なのだろうか。いや、そうではない。ただ向こう見ずな冒険家とは違う。信念に基づいて冒険に伴う危険をかいくぐりつつ飛躍する。競争に勝てるかどうかを常に見極める。永続的な時の流れや慣例に流され、受け身になる事は決してない。彼の飛躍はどれも職業的、社会的進展につながっている。五十年もの間、冒険という旗の元で戦ったのだ。冒険の伴う危険も抱えながら。そして12月のある朝、職を失う。常に指導者であった彼が失業者となってしまう。失業、老い、早めの定年に正面から打ちのめされる。普通ならもう冒険は終わったのだと理解し、その事実を受け入れるところだろう。だが、彼は違う。彼にとって「終わり」という言葉は存在しないのだ。生あるうちは冒険あり。そこで彼は夢見る。全ての人が一度は心に抱く夢を。「常にしてきた事ではなく、したかった事が肝心なのだ。」そして自分の道を歩み続け、新しい視野を見い出す。が、ふりかえると蓄えが何もないではないか。冒険と物質主義は噛み合わないものだ。しかし彼はまだ勝てると自分でわかっている。危険が財産をもたらす事などまずない。が、希望を与えてくれるのは確かだ。冒険とは全くの偶然の出来事なのか、神の意志なのか。
ここで日常生活における冒険に目を向けてみよう。私達がその日その日を生きている冒険。私達の文化と起源の反映された冒険だ。
年令と経験を重ねてゆくうちに、予想外の事も起こるものだ。偶然なのか神の意志なのか、、、
今から2ヶ月前、銀行から電話があった。「ルネ・Gさん、小切手が届いています。口座は・・・でいいんですよね。」何も疑うようなことはなかった。私の事業に関して、小切手を受領することはよくあるからだ。ただ、電話を切った後考えてみると、その小切手には何の思い当たりもなかった。そこで小切手発行人の性格障害児研究所とコンタクトをとってみた。すると驚くことに、私と同姓同名の人がいることがわかった。研究所所長は、その小切手が教育者の一人、ルネ・Gさんに宛てられたものであると確認してくれた。日時を決めて小切手を届けに行き、本人と話している間に、実は私達が遠い親戚であるとわかったのだ。二人ともフランス、ヴァンデ県に親族がいるのであった。それから一週間程して、今度は審査員としてこの研究所に出向くこととなった。そこでなんと審査委員長補佐を務めていたのが、アルジェリアでの私の生徒だったのだ。(1957年、私はコンスタンテインヌ町計画の教官をしていた。)当時ド・ゴール大統領政府によって決められたこの計画は、人里離れた小村の全ての児童を就学させることを目的としていた。これは日常の冒険、偶然の重なりの典型的な例と言えるだろう。同名異人から遠い親族の発見。それから45年時を遡り、教え子との再開。驚きの連続である!
ル・リットレ第一巻、390ページ。冒険。比喩的な意味で、偶然の事故によって起こること。
引用すると「人生は多くの冒険に満ちている。」>
ルネ・ギエ
1938年アルジェ生
定年、スポーツ協会会長、学校図書館にて語り手、アートジャーナリスト、競売主催
サン・ジェルマン・レ・アルパジョン
(エッソンヌ県)に住む