日本人と自然 人間と芸術への視線
先入観
小さい頃、私はよく日本の話を聞いて、日本という国はいたるところスモッグに覆われた国だと想像していた。汚れた空気を防ぐためにマスクをかけて生活する都会の住人、水銀中毒で身体が歪んでしまった漁民、不動産開発業者や政府の役人に反対して自分たちの稲田を守る農民…つまり、私にとって日本は実に汚染大国だったのである。でもその反面、学校で夢中になって勉強したので、この国には庭師が設計した庭園があり、それは手入れのいきとどいたちょっと風変わりな庭園であるとか、とても”ゼン”的な風景を見事に描いた画があり、家は木と紙で出来ているとか、火山が噴火していたり、地震があったり、農民は足を水に浸して生活しているということも知っていた。
そしてある日、私はそこに行った。でもそれは、これらのうわさを確かめに行ったわけではない。冬のある日、裏に毛皮をはった靴を履き、厚いオーバーコート(日本は寒くて、道路の両側には2メートルの雪が積もっているらしかった)を着て、ただ無条件にそこに着いたのである。私の生涯を床に近づけたダンスという芸術と対面するためにやって来たのである。
私はコンタンポラリー・ダンスの一団に加わってダンスをした。初めて日本の床体験をした時、足がひどくいたかった。この一団の練習場は東京の郊外の真っ只中にあり、軍隊式の訓練が朝8時から、木の床上で、素足で行なわれた。マイナス5度もあって、本当に寒かったのを覚えている。寝る時も、じかに畳の上で寝た。私の先生である舞踏家は、雪の積もった石ころだらけの道を、素足に下駄をはいて学校に通った、秋田地方で過した子どもの頃の思い出などを話してくれた。私は日本の多くのことを、床や地面を通して体験したのである。
都市の中の自然
自然は私の都市生活の周囲に存在していた。農家の行商人が野菜を売りに来たりして、生活には季節感が感じられた。くねくねした裏通り、小さな庭、ちっぽけな田んぼ、捩じくれた木がしがみついているごつごつと切り立った岩で縁取られた坂道、河床が余りにも広いので、自由と空間が勝手に流れこんでいる川など、一歩歩むごとに、都会の真中で田舎にいる感覚を覚えた。そこでは、春の訪れを目で確かめる事ができた。桜の咲くのを待ちかねて、心が高ぶるのを覚えたり、つつじやあやめも見に行った。そして、家中のたんすのものに青カビが生えるじめじめした”ツユ”(雨季)の雨をののしった。巨大都市の蒸し暑い熱帯夜に、窓の隅に吊るされた風鈴を鳴らす微風を求めながら、私は疲れきってしまった。世紀の洪水と家の屋根が吹き飛ばされるのを密かに期待しながら台風が来るのを待ちわびたこともある。ある時、食事の最中にぐらっと来た。私は、真夜中に背中をマッサージする大地の気まぐれをじっと堪えた。日本人の友だちは、アトリエの棚から彫刻を運び降ろしていた。彼らは真っ青になって震えている私に、じっとしていているよう注意した。仕方なしに、家の土台にぶつかってくる地面のショックが止むのを待った。
それから、柔らかいススキの穂、燃えるような楓、冬の到来とともに黄金の光、そして再び明るく乾燥した寒い冬の訪れ。
私は日本中が、季節を中心に展開していることを固く信じていた。周囲全体が、季節や至る所に存在する固く緻密な大地への帰属意識に注がれている。オーギュスタン・ベルクは、そのことに「自然は、文化的言語で表現することができる。そして、そこでは野生の自然が、構築された自然になる」(Augustin Berque, Le sauvage et l’artifice, Gallimard, p.16 )と書いている。
友だちのマユミさんが、日本では自然という概念が季節の概念と一体になっていると、オーギュスタン・ベルクの考えに対し、説明を付け加えてくれた。彼女によれば、日本人の心情や考え方は、はっきりと異なる四季の変化に表象され、左右されている。日常生活もまた、季節を中心にオルガナイズされている。季節の変化に寄せる昔からの崇敬の念が、社会生活、慣習、人間関係の底辺にあり、それが生活にリズムを与え、存在の本源において個人の心に触れている。従って、日本の文化は宿命的に気候、つまり地理的自然と結びついている。
自然-文化
時代とともに、自然は少しずつ日本文化に織り込まれていった。季節ごとにその特徴あるすばらしい様子を言葉で祈り、表現し、日常茶飯事の事を話すにしても、社会生活における個人と自然とのかかわりが必ず話題にだされる。春には、桜前線の前進状況を知らせたり、解説したりする。あるいはまた、しかじかの雨(様々な雨に対する形容詞が30種類以上もある)がはかない桜の花を散らすとか、桜の開花を祝ってグループで”花見”の支度をし、桜の下で飲み食いし、歌を歌い、季語を選んで俳句を詠んだりする(俳句に欠かせない季語を集めた歳時記もかなり出版されている)。今は着物を着る人が少なくなってしまったが、着物には季節の色や柄が見事に描き出されている。また、自然と深い関係のある、庶民に愛着をもたれた恒例のお祭りが、四季折々に各地で催うされる。どの村や町でも祭りを廃止しようなどとは一瞬たりとも考えた事がない。ちょうど、恵みの雨が頭上に降りかかるのを避ける人などいないように。
こうして毎年、自然の移り変わりと結びついた行事がその都度行なわれ、個人の生涯や共同体の歴史に忘れがたい思い出を残して行く。年賀状、プレゼント、挨拶の習慣、ボーナス、隣近所の付合いなど、すべてが自然への愛着を物語っている。
自然に対する日本人の感情を一言で表現するのは、非常に難しいことである。しかし、ここで「侘・寂」の概念を取り上げてみたい。ある人は「侘」を完全ならざるもの(不完全性)という言葉で表現している。「寂」は「懐かしい」に近い伝統的感情と結び付けられ、物に刻まれた時間や偶然の刻印から生じた印象を描写するのに使われる。これは物に残された繊細で目に見えないものに近づくような、かすかできわめて深みのある感情に違いない。もはやそこでは、人間は主人公ではなく、人間の「自我」が出入りできない空性である。ほとんど神の世界に近いと言える。それなのに、目の前にあるのは単に、熊手でかきならした白砂の小川の流れに、選ばれた岩が配置されているだけであったり、自然のままの瑞々しい樹木であったり、古色蒼然とした古壁であったりするだけである。
谷崎潤一郎の小説に出てくる女性の一タイプについて:「女は、古くから存在する処世術の情趣とともに、いやおうもなく暗がりの中に消えうせる運命にある、哀愁をおびた審美家的気質で人の心をとらえる」(『陰翳禮讃』谷崎潤一郎/Rene Sieffert仏訳(Eloge de l’ombre) 序文d’Etranges Pays)と書かれている。これは私が考えている侘・寂の概念に近いものである。人間は、物のはかなく不完全な美にひかれる。
こうして、老人に対する尊敬の念も、去り行くものに対して惹かれる心、すなわち老人は、ものの隠された意味を携えたメッセンジャーであると説明することができる。そしてまた、年長者、先祖、故人、「先輩」(自分より先に生まれた人)に対する尊敬、重要無形文化財保持者である「人間国宝」や年上の人たちに対する尊敬もおなじである。
これは結局、かなり儒教的な考え方であると言えるかもしれない。しかしこの儒教は、自分たちの祖先が土地と結びつき、祖先を「神聖化」し、神道の神々を祭る多くの神殿に同列させるという特定の日本人の考えと結構うまく結びついている。「神道における真の神の社は自然である」(V. Elisseeff)。神道という宗教は、自然の基本要素において、神性を具現化している。日本を建国した神話の中の神である天照大神は太陽神である。昭和天皇の神格化否定宣言までは、天皇は神の後裔であった。神官あるいは奥義を伝授された者は神々と交流し、神託により個人や共同体の運命に指示を与えることが出来る(Anne Bouchy, Les oracles de Shirataka, Philippe Piquier, Paris, 1992参照)。神々は自然力を統治する実体で、最も重要な実体は水、豊穣、季節など食糧生産に結びついたものか、あるいは山岳、岩石、水源、樹木に関連したものである。
驚くほど豊な緑と様々な樹木が繁茂する自然のままの野生の光景は、庭園において再現されている。人間は近づき難く、また神々の領域でも大自然の中に逗留する事は出来ないため、自分たちのサイズに合わせて自然を造り直す。従って庭園は、瞑想、思索、精神的創造などのために、山、滝、植生、海、島などを配置した野生の自然の隠喩であると言える。
私の特に好きな庭園をいくつかあげてみよう。地面が柔らかく繊細な苔に覆われた西芳寺(苔寺)。
早朝(駐車場の入り口に日本人客用の観光バスが列を作って待ち始める前)の龍安寺。その頃はまだ太陽が低く、朝日の築地に映えるあらゆるニュアンスの質感がすばらしい。私はそこで瞑想し、このような環境の中で過した禅僧の生涯に思いを馳せるのが好きである。また、鎌倉の小さな禅寺、報国寺の素朴さにも感動させられる。竹林の奥にある小さな滝の前でいただく一杯のお茶は格別に美味しい。他にも、南禅寺、醍醐寺、東福寺…
自然は人間の感情や思考に影響し、人間は繊細な芸術品として自然を創造する。こうして文化の概念は、自然の概念と結びついていく。「自然に至るためには、野生の段階を超える必要がある」(宮川)。庭園は、造形的であると同時に、植物を素材とした精神的な正真正銘の芸術作品である。恐らく、人間と自然との関係がここに最もよく集大成されていると思われる。
芸術
弟子は模倣や繰り返しによって師の芸術を学びながら、生来の気質を超え、純化して自分の画風を生み出していく。その時、初めて芸術家として認められ、筆捌きも自然になる。そうして、師の画風を質的にしのぐに至るのである。ここでも、「自然に至るためには、野生の段階を超える必要がある」といえる。岩山やその斜面にしがみついた松を描く画家の筆は、一息に崇高の域に達しなければならない。墨は修正を許さない。ここでもテーマは自然である。茶花のシルエットや茶道の宗匠の象徴的動作もまた、自然を連想させる。着物の柄や漆塗りの箱の装飾、旧家の家紋、活気ある会社の企業マークなどは、植物からヒントを得ている。
伝統舞踊、能、歌舞伎は、歴史や神話の中の出来事をテーマにしているが、これらの舞台背景には、自然を連想させるモチーフが至るところに描かれ、観客は一目でその象徴的意味をとらえる。
文学といえども自然と切り離しては考えられない。その代表的な例が俳句で、一句一句、季節に結びついた感情が盛り込まれている。日記の中でも、季節に触れる。手紙を書くにしても、空の様子とか、暑いとか涼しいという季節の挨拶で書き始めない手紙は考えられないし、誰もが天気について細々とした気遣いを手紙にしたためる。
日本文化を生みだした日本人は、まるで自然そのものをコントロールすることができないがために、態度、身振り、言葉、感情をコントロールすることに専心した。すなわち、社会的な規範や規則によって義務付けるという別の方法で、内面化した野蛮さを手なづけ、生活環境を鮮明にする必要があったのである。こちらの野蛮さは、コントロールすることができる。ここには、内部と外部の間に地滑り現象があったのではなかろうか。これ関して、私が東京に着いた(1983年)頃に、はっきりした公私の境界がないのに唖然とさせられたことがあった。コミュニケーションの場である公衆浴場、鍵がかかっていない開けっ放しの家屋。自転車やオートバイは、簡単に留めてあるだけ。それでも自転車だけはなくなった。盗まれる可能性があるのは自転車だけだった。路上での近所付き合いは、まるで住民が有機的に繋がっているかのような印象を受けるほど、信頼に満ちあふれ、善良そのものであった。
故郷(生まれ育った家もしくはその土地)もまた私にとって重要な言葉である。これは土地に深く根を下ろした、出身地とか生まれた家、母親の料理の火に還元される系図の概念を連想させる。帰属意識が薄くなると、日本人の心すなわち日本文化との関係が失われていくような気がする。
過度
今取り上げているテーマに関連したことで、60‐70年代の行過ぎた経済成長を説明するために今一度、日本の気候と豊な自然について語りたい。日本は極端な国で、極地なみの寒さと大雪に見舞われるかと思えば、熱帯の蒸し暑さ、台風、地震、モンスーン、豊な水と冬の乾季、海と山など、日本にはすべての気候が存在する。人間はそこで常に、この極端な自然と調和を保ちながら生活することが必要とされていた。それは自然の掟を受入れ、それに従い、日和を待ちながら流れに漂っていることである。こうして、日本人の長所と考えられている感受性と活動性が養われたのである。
寛容で力強い母のように寛大な日本の自然は、人間の行過ぎや悪事を十分カバーしたり、償ったりする。しかし、上述した経済の「高度成長」が、余りにも急激であったため、人間は自然に対する従来の配慮を怠ってしまった。その結果、自然は破壊され、生態系を狂わせてしまった。
オーギュスタン・ベルクは、経済大国は一見前向きで補足的流れとして、ごく自然に取り組まれたのではないかと提示している(Augustin Berque, 前出, P。209)。1970年4月13日付の朝日新聞は、「…自然に恵まれすぎた。それに甘えて、…。日本の自然は、その人情とともに、荒れ果てようとしている」と述べていた。自然という言葉はまた、「言うまでもないこと」を意味する。ところで、日本が新技術の導入によって獲得した富や幸福について、検討される事がなかったのは言うまでもない。
住民自らが指摘するまで、これほど惨憺たる結果を検討すること事はなかったのである。当局がそれを認め、水銀による水俣病患者に対し賠償金が支払われるまで、ほぼ20年の歳月を要した。企業の方は、相変わらず繁栄し続けている。
最後に
日本人と自然、母なる大地との関係について書いたこのエッセーは、まだほんの概要が描き出された段階に過ぎない。
結局、日本人が伝統を重んじることの中に見いだした一種の解決策は、おそらく環境問題に救いの手を差し伸べることになろう。日本人はこれらの伝統によって、自然との関係を再認識するに違いない。
私は、日本人と自然との関係がグローバルである事を証明してきた。自己省察に結びついた思想や精神分析的療法などの流れが、ほとんどインパクトを与えないという事を考えた時、年齢、職業、境遇などにかかわらず、すべての日本人に見られるこの特別な関係は、日本人の無意識をオルガナイズする一つの手段なのではないかと考えられる。日本人は、連帯意識で他人と結ばれている。
私が所属していたダンスグループのコリオグラファーがヨーロッパに戻って来た時、私に言ったことを覚えている。いつもは友人か関係者と一緒に旅行するのに、たまたまその時、彼は一人で飛行機に乗っていた。見知らぬ人が彼を認めて話し掛けてきた。その時一瞬パニックに陥ったと私に告白した。というのは、知り合いがいなくて、自分の視線の置き場所がなく、見知らぬ人への返事に対する同意が得られなかったからだと言う。私はすぐさまこのたくましい男性にも急所があったと心の中で呟きながらほくそえんだ。このように自分が誰であるか知るために他人の視線を必要とするなどということは、驚くほど子どもっぽい事に見えた。それから少し経って、蜂巣状組織なしの細胞は存在する理由がないように、この場合、コンテキストから切り離された個人は存在しない事に気が付いた。
繋がりを持った存在は、全体の中で位置付けることができ、存在のアイデンティティがそこに生まれる。それゆえに、人は出身地、所属グループ、祖国と結びついているのである。
マリエル・リック
東京に3年滞在
ヨガ教師
造形美術家(写真、絵画…)
パリ・メニルモンタン在住