Le Pont

知的文化交流のための雑誌メディア

ヌーヴェル・ヴァーグの速度

2001/04/05 (��) 02:07 | Kaléidoscope, Le Pont

ヌーヴェル・ヴァーグが元気である。ただしそれは「今観ても新しい」といった懐古主義とは無縁だ。確かに1958年から押し寄せたその波を担った映画作家達は、今では70歳を過ぎ新鮮味には欠けるかもしれない。だがパリでは昨年以来、波の中枢を担ったいわゆるヌーヴェル・ヴァーグ三銃士の名を目にする機会が多いのだ。例えば三銃士の中で一番若く、そして最も素早く人生を駆け抜けたフランソワ・トリュフォー(1932~84)のレトロスペクティヴが昨夏から続いている。また批評家時代、とりわけ過激な論調で知られた彼の二番目の批評集《Le plaisir des yeux》(視線の快楽)がそれに合わせて「カイエ・デュ・シネマ」から再版された。日本では第一批評集《Films de ma vie》(我が人生の映画)の邦訳が中断されたままになっているだけに、映画を愛する情熱に満ちた彼の批評が完全な形で日本語で読めるようになって欲しいものだ。

三銃士は皆「カイエ・デュ・シネマ」誌の批評家から映画作家になっている。その中で一番最初に長編を撮ったのがクロード・シャブロル(1930~)だ。叔母さんの遺産で撮った『美しきセルジュ』(1958)以来、70歳になる今迄絶え間無く撮り続けたシャブロルの52本目が、新作《Merci pour le chocolat》(ココアをありがとう)である。チョコレート会社の社長を務めるミカは著名なピアニストと再婚したばかりだ。彼女は毎晩夫と子供の為にココアを作ることを習慣にしている。そこに突然、自分はピアニストの子供だと名乗る女性が現れる。また前妻の不慮の事故死には不審な点がある…。
前妻の影に苦しむ女性、と言えばシャブロルの最も敬愛するヒッチコックの『レベッカ』(1940)なのだが、イザベル・ユペール演じるミカの役どころは、『レベッカ』の新妻ジョーン・フォンテインというよりは、不気味な女中ジュディス・アンダーソンに近いものだ。近頃絶好調のユペールは仮面の様な笑みと無表情とを巧みに使い分けつつ、内部に空虚を抱えた女性を見事に演じきる。シャブロルはお気に入り女優の表情を執拗にキャメラに収めており、これはまさにユペールの顔のフィルムである。物語は実は養女であったミカと、病院で取り違えられたかもしれない若いピアニストという二人の女性の出自の問題を軸に、前妻の死への疑惑が絡み合いつつ展開される。前妻が事故死した夜のフラッシュ・バック場面の巧みな空間設計をはじめとする手堅い演出といい、ミステリーと心理劇の混ざり
合ったお得意の主題といい、まさにシャブロルの本領発揮である。

三銃士の最後の一人はもちろんジャン=リュック・ゴダール(1930~)だ。新作の公開が待ち遠しいところだが、『勝手に逃げろ/人生』(1979)以来、公私両方のパートナーであるアンヌ=マリー・ミエヴィルの新作《Apr峻 la r残onciliation》(仲直りの後で)が公開されている。ミエヴィルは『マリアの本』(1984)といった短編を経て長編を撮りはじめ、新作は長編第4作にあたる。 主演はゴダールとミエヴィル。フィルムはこのカップルに一回りほど若い男女が絡み、「話すこと」や「言葉の力」を話題にした会話を中心に構成される。『映画史』などでお馴染みの低い声ではしゃぎ、皮肉を言い、そして泣くゴダールが素晴らしい。役者としてのゴダールの魅力が最大限に引き出されている。とにかくコミカルなのだ。ポケットからクッキーを取り出してこっそり食べているところを見つかって「甘いものはだめでしょう!」とミエヴィルに叱られる姿や、若い女にあからさまに誘惑されて困惑する場面など、画面にゴダールがいるだけでユーモラスな雰囲気が醸し出されるのだ。
だからといってこのフィルムをゴダールがただ片手間に出演したものと見なしてはならないだろう。フィルムの冒頭部分はビデオで撮られたいわゆるメイキング・シーンなのだが、そこでは近所の子供達を『勝手に逃げろ』で見たようなスローモーションで写したり、車中の撮影ではゴダールがカチンコを鳴らしたりしている。この部分が示しているのは、このフィルムがゴダール=ミエヴィルの実生活の延長として作られていることだろう。さすがにクッキーを食べて怒られてはいないと思うが(多分…)、ここで描かれる長年連れ添ったカップルの倦怠という問題は二人の創作者の日常と無縁ではあるまい。ゴダールとの日常から紡ぎ出された物語は、ゴダールの現在を理解する上でも甚だ興味深いものである筈だ。まあそうした理屈を抜きにして、赤裸々に身体を晒すゴダールの振る舞いを堪能するだけでも充分に面白いのだが。

三人のヌーヴェル・ヴァーグ映画作家達の「現在」についてざっと記してみたが、一方最近の日本で、特にゴダールは一種の流行りの中にいるようだ。渋谷の劇場で連続的に60年代のゴダール作品が公開されたのを皮切りに、批評集が刊行され、観る機会の殆ど無かった作品のビデオ化が相次ぎ、またビデオ作品として作られた『映画史』(1988~98)が劇場で一挙公開された。さらにこれ迄日本では劇場未公開であった『はなればなれに』(1964)が現在公開されている。数年前までは考えられなかった様な、パリ以上に日常的にゴダールに触れることのできる環境が現在の東京では実現されているだ。そうした状況を批判するつもりはもちろん無い。ただどこかに割り切れなさが残るのは、そこにゴダールの「現在」が稀薄だからだろう。先に列挙した中で『映画史』以外は全て60年代のゴダールをめぐるものばかりである。フィルムによる最新作『フォーエヴァー・モーツァルト』(1996)も『JLG/JLG』(1994)も未公開のままなのだ。梅本洋一も述べていた様に、ゴダールとは何よりも「速度」である筈だ。たとえゴダールがアンナ・カリーナのファッションと共にモードとして消費されようとも、その過程で多くの人がゴダールを発見するのはもちろん喜ばしいことだ。ただ願わくは、現在の流行が一過性のものとして終わらず、駆け抜けるゴダールの現在へと視線を向けるきっかけになることである。

瀬尾尚史
一橋大学言語社会研究科修士課程在学
専門は映画史・映画理論
現在、パリ第三大学に留学中