酪農
日本に帰国して2年後に経験した3.11東日本大震災。福島県は三重の被害を被った。人々、動物、多くの事が犠牲になった。農業の被害は酪農農家の悲惨なニュースに心を痛めた。搾乳した牛乳を処分する、余儀なくされた牛たちとの別れ、困難な状況の中で牛の餌を調達し時々そっと餌やりに行く…等と、どれほどの問題をテレヴィ、新聞、雑誌で見聞きしただろうか。その度に酪農農家の方々の立場に自分だったらどうしただろうと想像し、事の重大さに圧倒され悲しかった。最近は進んでいる復興のニュースを聞き、再び牛たちを放し飼いにできるまで回復した地域もあると聞いてとても嬉しい。このような嬉しいニュースの中、自分が一番気に入っている思い出深い酪農の話を書いてみようと思った。随分昔の話になってしまうが、カイロで結婚後に始めたプロジェクトだ。
農場は、マディーネット・サラーム(平和の市)と呼ばれる地域にありカイロ国際空港の北西約5キロの所だった。周辺には小さい村や町(今は地下鉄も開通)があった。市街へは約20キロ、住宅街、商店街のあるヘリオポリス市(大統領官邸がある)まで7〜8キロの距離だった。しかし今農場は無く、1995年に2年をかけて閉鎖した。その後フランスへ引越をした。
結婚当時、夫らのその土地は手付かずで荒れ果てていた。私はその土地で農業に挑戦したい強い気持ちを訴え夫は半信半疑で聞き賛成してくれた。まず、近隣の農場、共同組合、夫の親戚の田舎へ行き見学、農作物のこと、牛について貪欲に多くを学ぶことから始まった。親戚や知り合いのエンジニアらの協力を得ながら最初の2〜3年は土質の改善、井戸を掘る、水路作り、土地の高さを平均化することに時間を費やした。時期を少しずらしてから同時進行で牛、水牛、羊を数頭ずつ飼い始めた。忍耐の日々だったが酪農ができることを目標に着々と進めていった。
因みに土地全体は78,000㎡ (7.8ヘクタール)だが、土地が変形して使えない部分、近隣との距離間、居住の為の家や庭、家庭栽培の畑、そして農夫たちの居住地があるので残りの約55,000㎡を農業用地として餌の牧草やトウモロコシを植える畑、牛舎、搾乳場、倉庫、車庫、治療室などに使った。
それでも相当に大きいので千本近くのナツメ椰子を植えた。ナツメヤシは苗から植えて実の収穫まで5〜7年ほど掛かった。700本余りから収穫でき始めた頃から、商業活動ができた。農場が空港に近い利点から輸出業者が買い付けに来ていた。
牛は牧草の生産量に合わせてながら徐徐に増やして行った。(固形の餌は常時農業組合から購入)やがて十分な牧草が生産出来るようになった時には乳牛は70頭、食用用の牡牛は常に15〜20頭になりそして常に子牛が15頭余り。このスケールを保ちながら酪農を準備期間除いて15年間経営して来た。
乳牛は政府がヨーロッパより輸入したホルスタイン系の種類だが特に秀でている牛ではなくごく平均的な乳牛だった。15頭ずつ数年の間に3回に分けて買い付けた。買い付け時の牛のほとんどが最初の妊娠をしている若い牛たちだった。優秀なホルスタインの泌乳量は年間5500キロぐらいといわれている。我が家の乳牛は、一日一頭12〜15キロ搾乳量で単純計算するとその三分の二以下に当たった。
最初の頃、乳牛の一頭一頭に名をつけていたが30頭位までは良かったがそれ以後は覚えられない、付ける名も無くなってしまた。各々の牛の特徴と耳に付けたタグナンバーを頼りにしたが思わぬところで牛の区別が出来たのだ。それは、搾乳時必ず乳房の周りを洗い傷など負ってないかチェックをするのでそれを繰り返しているうちに、乳房を見るだけで区別することが出来た。牛たちの性質もまちまちで先頭に立つボスタイプ、目立ちや、後ろでノロノロする気弱なタイプ….様々。観察は面白いし楽しかった。
酪農の一日は朝5時の搾乳から始まり午後5時の二回目の搾乳で終わるがその時間外にお産の手伝いや治療の必要な牛の世話、餌の準備、管理台帳などで24時間縛られる。いつでも連絡が取れるように農場と居住地内の私の事務所にはインターフォンのような内線通話機とウォーキートーキーを設置していたものだ。(携帯電話などない時代)。農夫たちとの関係は良く意思疎通に問題はなかった。いつも共に相談や話し合いをして物事を決めていた。
朝搾った牛乳は、前日の夕方に搾乳した牛乳が冷蔵保管されているタンクに、搾乳機から自動的に送られる。毎朝8時頃に国営の乳製品製造会社が集荷に来る。その前に毎回ビーカーで牛乳の検査をしておく(政府機関から検査項目やバクテリアの数値等の指導を受ける)。売り先は自由に選べるが政府機関に卸す事によって毎月納めた量の代金の他にその量に見合った良質な固形の餌を優先的購入する事ができたのだ。それに予防注射、共同組合の獣医の巡回も速やかにしてくれた。一度は、日本政府がエジプト政府に数千台のクボタのトラクターを寄付した。その半分の台数を個人農業者に安価で販売することが決まった時はすぐ知らせてくれたので一台購入する事ができた。お陰で性能の良いクボタ(何馬力か忘れたが)で農夫らは快適に畑を耕していた。運搬にも役立った。赤いkubotaとあるトラクターは緑の中でとても新鮮に感じた。
このトラクターは搾乳機械(アルファラヴァル社)と共に農場自慢の機具だった。
酪農のお陰でさまざまな人たちと交流を深めこの上ない有意義な人生の一部分となった。また言葉で書き記せないほど豊富なことを学んだ酪農生活だった。感謝。