「もしもという道」

2005/09/18 Sunday 07:22 | Le Pont

Le Pont 6 Email de Sora
もしもあの時こうしていたら。 人はみな、幾度かそう自分の過去を振り返ることがあるだろう。
あのとき、違う大学を選んでいたら、今とは違う仕事に就いていたかもしれない。
あのとき、苦しんでいた友人にもう少し優しい言葉をかけられていたら、
その友人は救われていたかもしれない。
あのとき、本当に人を愛することの意味を深く理解していたら、恋人と傷つけあわず、
今もまだ寄り添っていたかもしれない。

人生は選択の連続。
目の前に分かれている二つの道のどちらを選ぶか。
それによって拓かれていく未来はどれほど違っているのか。
そんな可能性を思わずにはいられないのは、私たち人間のサガだろう。

けれども私は思う。
あの時こうしていたら今とは違った自分がいるはずだ、なんて、幻想に近いのではないかと。
国籍、親、容姿… これらを選ぶことはできずに私たちは生まれてくる。
けれどもそれが運命であり、自分自身のアイデンティティとなる。
この世に生を受けてから今日までの自分を形成する環境、そして本質
(つまりそれは容易には変えがたい本来生まれ持った気質、性格、傾向などを意味する)
が、なるべくして今の自分自身たらしめているのだ。
そして、生を終えるまでの長い人生の旅路を歩んでいくのは、正にその自分自身の選択と足(つまり健康を含める肉体と生きて行く意思・精神)なのだ。
つまり、どちらを選ぶかという行為が人生を決定付けるのではなく、その選択をしていく自分自身の本質が自分自身の人生を導いていくのではないかと、
私は信じてやまない。

それに気づいて以来、私は決して後悔をしない生き方をしている。
目の前に現れた二つの異なる道を選ばなければならないとき、私は力の限り思案し、
自分の心に嘘をつかない道を選ぶ。
それゆえ、たとえその道が茨の道であっても、行き着いた先に失敗が待っていても、私に後悔はないし、
あのときもう一方を選んでいればとは思わない。
なぜなら私は、その選択をするまでの自分の思考過程を信じているし、
その瞬間瞬間の自分自身は(価値観や心、偶然出会った人や事象)、
これまでの生き方すべてが反映された自分そのものでしかないからだ。
あのとき友人に優しくできなかったことは悲しいことではある。
けれでもそれはそうできなかった愚かで幼い自分でそうしたことなのだ。
その愚かな自分があのときたまたま優しくできても、愚かなままであったら、
きっといつか違う友人を傷つけているだろう。
大事なことは、あのときそう出来なかった愚かな自分に気づき、認めることができたその先に、成長し、本当の優しさを持てる自分になっていくことではないか。
過去の道(選択肢)を恨んだり羨んだりするのではなく、自分自身に誠実かつ潔い態度で、
目の前から未来に続いていく道(選択肢)に対峙することが、よりよい人生を歩むコツなのだと思う。

>>>このコーナーでは、毎回、空さんから送られてくるEmailメッセージを掲載したいます。






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