合気道と求道心

2005/09/18 (��) 04:56 | Kaléidoscope, Le Pont

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「道」とはなにか。いかにして継続して自分を求めていくかという忍耐の道。また、次元は4次元以上の創造的なもの。目に見えるものではない。いかにして自分のイマジネーションを高めていくかということが「道」ともいえる。「道」は無限であり無限だからこそ、「道」に、命が入り、魂が入ってくる。なにかを極めようとする過程に通る道。

「道」を極めるということは自己との戦いを極めるということである。合気道は試合をさせない。それは、自分としての戦いを極めなさいということである。他人と比較しても何にもならない。自分自身を向上させなさい、自分の魂を向上させなさいということは自分自身を磨くことしかない。

来世も添い遂げたいと思う伴侶に合気道を通してめぐり合い、二人で道場を開いてもう長い。合気道の稽古をとおして門下生に得て欲しいと願うものは、健全な心、健全な肉体、霊的な力、そして今の日本人に足りなくなってきていると思われる感謝の気持ちとやさしさである。まず、優しさを合気道から学ぶということはどういうことか。合気道の動きは決して相手を傷つけないようになっている。やろうと思えば、相手を瞬時に殺すこともできる力を身に付けても、決して、相手を傷つけないことが合気の道だといわれている。合気の動きは、真の優しさを訴え、この優しさこそ平和を唱える。

また、我が道場では、原則として、子どもは親子一緒でなければ入門を受けつけない。親と組んでやる中で、親子の間に友愛、信頼感が深まる。合気の稽古を通して、子が親に感謝する気持ち、互いに感謝する気持ち、優しさを育みたい。合気が平和を唱えるのであらば、こういった稽古の仕方のほうが合気らしいのではないかと思っている。

合気の「気」は念力であり、パワーである。物理的パワーは臍下丹田から出てくるエネルギーで、霊的には宇宙との一体感から生まれるものがある。合気そのものが宇宙論ともいえる。宇宙の呼吸と自身の呼吸を重ねると、発気または発勁(「気」を出すこと)、脱気(相手の「気」を抜くこと)ができるようになる。合気の円運動のなかでの動きは、メビウス(∽)の無限の力をなぞり、宇宙との一体感を促し、小宇宙としての自己を確立する要素となる。この宇宙との一体化が自身を清める力の基本となり、神道では「みそぎ」という自身を浄化する稽古となる。美しいものを美しいと感じることのできる感性も「気」の力となる。

私自身、合気の中で生まれて、合気の中で生きてきた。5歳の時から、海軍士官であった父から合気道を学び、植芝盛平先生の弟子の斉藤守弘先生に師事した。師と共に、茨城にいらした植芝先生をたずね、直接教えていただく機会も多く得た。植芝先生に試合を挑んできた世界チャンピオンのボクサーも、相撲の横綱も大関も、瞬時にして爆風のごとく遠くに飛ばされていくのを、この目で幾度も見た。「我即宇宙なり」と言われた植芝先生は、真にすさまじい超人的なものを持った方であった。私などの武は万分の一にも及ばないといつも思うのだが、やはりあの信じられないような境地をめざしている。

柔道、剣道、古武道、書道、茶道、絵画や陶芸などの芸道――「道」のつくものはすべて好きで、自分なりに「道」を求めてきた。キリスト教、仏教なども私にとっては、「キリスト道」であり「釈迦道」である。座禅は小学校の時に始め、キリスト教も熱心に勉強した。また、自我自欲を制し主君に仕える日本の武士道精神が、私の「道」の要となっているのかもしれない。仕える主君こそいないが、より多くの人の役に立てるようにという深い願いと、ストイックな究極的な禁欲主義に根付いた求道である。私にとっては医者としての仕事も、合気道も書も絵画も陶芸もすべて、一つの「道」につながる求道表現といえる。
世界各国、それぞれの「道」を極めようとする「求道者」も、実際に歩む道が異なろうとも、その姿勢と、最後に行き着く境地はきっと同一なのではないかと感じている。外国から来た合気道の求道者も多く教えてきた。人生において、学力もある程度必要ではあるが、其の人の成功を決める鍵は、求道心、つまり向上心と体力にあるのではないだろうか。人も、国も、健全な心身がもととなり、合気が発せられれば、平和の道も開けるであろう。祈。

小出福祐

生年月日:1940年10月16日
職業:内科医師、医療法人 福友会(ふくゆうかい) 社会福祉法人 觀寿々会(みすずかい)総代表
道場名と所在地:高柳合気道場 名古屋市名東区高柳町603
現住所:名古屋市