Kaléidoscope

著者が日々の生活でふと想う事をつれづれなるままに書き記すエッセイです。

ドキュメンタリーの視線 映像における悦び

2001/09/05 (��) 02:16 | Kaléidoscope, Le Pont

2001年3月、私は一本の番組を制作した。CS放送1の某チャンネルでO.Aされた30分のドキュメンタリー番組だ。私の所属する会社では、CS番組の制作を個人レベルで行っている。毎週次々と新しいタイトルを仕上げていかなければならないO.A番組制作における低コスト化と作業効率促進がその主な理由だ。CS 番組を主に制作している小さなプロダクション等では近年もはや主流となっているノンリニア編集システム2がそれである。私のいる会社でもこのシステムを一部採用している。このノンリニア編集というのは簡単に言うと、ハードデイスクや光磁気デイスクに素材の映像を一旦蓄えて、コンピューターのメモリ上で編集を行うシステムのことである。また、編集データーのマネジメント機能も十分に整えられているので、部分をランダムに編集したり、シーンの部分的な中抜き・挿入等がVTR のようにコピー作業を行うことなく瞬時にできてしまう。私はこのノンリニア編集システムを使って、30分の番組制作の企画・構成から編集に至るまでのほぼ全ての作業を、自分で担うこととなった。

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いわゆるドキュメンタリー番組と呼ばれるものは台本があるわけではないし、取材対象人物が何をし、何を言うのかが決まっている訳でもない。構成を立てても実際に取材してみると、当初の目論見とは全く異なった展開を示し、一から構成の見直しを強いられることになったりと、ハプニングも多く非常に苦しみを伴うものでもある。私は3ヶ月半の取材と、一週間に及ぶ編集作業を経て、その30分番組を制作する事となった訳だが、以下は私が行った番組制作の行程を簡単に記したものである。ただ、これはあくまでも一例に過ぎず、私個人の現場の声として捉えて頂きたい。

番組を作るにあたって、まずはリサーチから始める。主人公の人物像、周辺の人物との関係、舞台となる場所や状況、イベント等のリサーチは基本である。今回の主人公となった人物は、出版業界で約40年間活躍し続けているベテラン編集者であったため、状況把握の基盤となる非常に多くの周辺知識を必要とされた。そのため3ヶ月以上に及んで、更には編集作業に入った期間も尚、膨大な資料や書物を読み続けることとなった。

次に、そのリサーチをふまえつつ大まかな構成表を作成する。集まった情報を元に必要となってくる素材をあぶり出し、一つの流れになるよう並べていくのだ。こうして番組の全体像を組み立てたところで初めて、絵コンテ3を交えた本格的なシナリオ(構成台本)を作成する。この行程はかなりの時間を要する。というのは、取材状況や自身の思案によって、途中何度も加筆・改訂されることになるからだ。ここでは自分が何を撮りたいのか、そしてノンフィクションと言っても、そこに視聴者をひきつけられるようなドラマ性をいかに盛り込んでいくか等、この時点でも番組像を具体的に形作っていくことが重要なポイントになるのだ。こうして作り上げた構成に、プロデユーサーや構成からゴーサインが出たところで本格的な撮影取材を始める。

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番組制作における第二の関門である撮影は、今回プログラムデイレクターである私自身が、SONYのデジタルビデオカメラ(『PD100』もしくは『VX1000』といった比較的小振りで素人でも扱いやすく、最近のCS 番組等の低コスト制作においてはその画質の良さからも完成品の素材として一般的に使われるまでになっている)で撮影もする。つまりカメラマンにもなるのだ。インタビュー撮影等はカメラを固定して画額を変えるというふうで比較的楽ではあるが(音声には十分留意が必要だが)、ドキュメンタリーならではの動きや変化、外出先への同行取材等、移動時の撮影には苦労する。しっかりカメラを安定させ、歩きながらファインダーを覗いて自身が望む画を狙い、なおかつ相手からコメントを引き出す。素材の善し悪しで作品自体の出来は大きくかわる。いかに生きた、そして意義のある素材を撮るか。そこは根性の見せ所で、取材対象者のもとへ何度も何度も足繁く通い、張り付き、展開上の様々な可能性をも考慮して素材を撮り続ける。撮影においては広い視野の他に、体力も要求されるのだ。ちなみに私は30分番組の素材として、一本約45分のテープを30本強回した。

先きにインタビューについて少し触れたが、インタビューの技術というのも重要な要素の一つだ。インタビューのコメント如何によって番組の流れは大きく変わる。聞き手は少ない言葉で質問をして話の流れを作りだす。当初意図していたようなコメントが撮れるとは限らないが、いかに流れを壊さず且つ漠然とならないように相手の気持ちをのせたまま゛おいしい″コメントを撮るか。これは私自身も、関係者諸々何十回もインタビュー収録を重ねていきながら経験で身についていった。

ほぼ全ての素材を揃え、再度構成を固めた後に、いよいよ編集に入る。編集はいわば持久戦である。特にノンリニア編集ともなると、PCの前に座り、実務作業も演出も全て一人でこなすことになる。そこで重要になってくるのが「客観性」だ。

「客観性」それはつまり「視聴者の目」と私は考える。視聴者というものは、前知識を持たないということが前提である。視聴者は番組を見て初めて話題に触れ、物事の発生からそれを取り巻く事情や関係性を物語りとして捉え、その物語の流れの中で内容を理解していく。視聴者にとっては基本的に、その番組がつくられていく上での内部の事情などどうでもいいし、知る由もない。ただ、映像に盛られている情報で作品を理解し味わうのだ。そういった「視聴者の目」は非常にシビアである。番組がつまらなかったり、分かりにくかったりすると、すぐさまチャンネルを変える。要は作品の面白さが全てであって、くり返しになってしまうが、内部の制作事情など関与するものではないのだ。

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しかしデイレクターは、これまでの全体の過程を、言い訳まで含めて全て把握している。いざ編集というところまで辿り着いたはいいが、膨大な量の素材を前に呆然としてしまう。全体の方針や伝えたかったメッセージが、様々な方向に分岐していくつもの道ができてしまったり、素材のどれも捨て難いといった迷い(思い入れも含めて)が生じたりして、しばしば作品それ自体が混沌としてしまう時があるのだ。インタビューシーン一つをとってみてもそれは言える。話者の話す内容やつじつまを視聴者に十分理解させようと考える故に、つい多くを語らせがちになってしまう。あれもこれもと言葉を活かし出す、しかしそれはなんとも際限がなく、番組の流れを崩す危険性を多分に含んでいる。視聴者は御託や理屈を望んではいない。何十分も素材があるといっても、本当に率直に伝えられる、なおかつパンチの効いた伝えるべきメッセージと言えるコメント部分は、しばしば、たった数秒に凝縮されていたりするものなのだ。番組は、決して視聴者を飽きさせてはいけない。故にデイレクターには、迷いや思い入れを断ち切り、より洗練された素材を選びとる力が必要不可欠となる。常に、「視聴者の目」でもって、自身の作品を冷静に評価しながら画をつなげていかなければならない。

こうして選りすぐられた素材を並べ、何度となくタイミングをずらしたり場所を入れ替えたり、時には素材の洗い直しから始めたりと、O.Aのタイムラインに収め完成に至るまで、私は丸一週間編集室に閉じこもった。編集とは持久戦だと先に記したが、殊更こういった個人レベルの編集に終わりはないと言えるのではないだろうか。ドキュメンタリーということで画像的な演出といったものはほとんど無いと言いうものの、それでもやはり物を作るという行為において、完全に満足できたといえるゴールはないのだ。

こうして苦難の時を乗り越え、選曲も行い、最後にMA作業4に入る。MAに関しては画の完成テープを持ち込んでMAルームに入り、後の作業はプロのミキサー5に託す。始めに、これもまた自身で幾度となく推敲したナレーション原稿をナレーターに渡し、コンセプトやイメージを伝えてテイクする。次に曲をあて、場合によっては多少の音響効果をつけてもらう。BGM やコメント、現場音を生かすか殺すか等の調整をし、全てのバランスを決定したところで、最後にミックスダウンとなる。かくして30分のドキュメンタリー番組は完成した。

以上のように、私が行った一本の番組制作の行程を簡単に記してきたが、実際の制作現場においては当然の事ながら一口に示せるようなものではない。ここで記してきた以上に多くのハードルがあり、制作者はそれらを一つ一つ乗り越えねばならない。ハプニングは常に様々だ。それはソフトの面からハード面、更には人間という、より深い問題にまで至る。毎回何が起きるかは分からない。そういった、常に袋小路のような中でひたすら波をかき分けゴールを目指す。

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こういった苦労は制作者全員、全ての技術者に言えることだが、殊に私はデイレクターの立場でその苦しみを味わう。デイレクターは時に孤独である。制作過程において、技術や進行面では多くのスタッフに助けてもらえる。撮影からO.Aに至るまで、各技術面の人々のサポートがあるからこそ作品は完成できる。しかしデイレクターは、ある局面局面では一人きりである。デイレクターの仕事とはいわゆる演出だ。演出と言うものは最終的に自分しかいない。自分が美しい、格好いい、気持ちいい、画になると信じ決断したものが、自身の感性の表れとして世に出ていくのだ。産んだ作品は言うなれば自身そのもの。日記を読まれているようでもあり、裸を見られているようでもある。故に、決して妥協できる世界ではないと私は考える。自身に課したプレッシャーに打ち勝たなければならない。それは非常に苦しい行為だ。自身のプライドが試されるようだからだ。制作中、そういった精神的な苦しみに長期間縛られいる上に難題が続出し、次第に希望は失せ、挙げ句の果てには、作品が出来てくれさえすればいいとすら思いだす。何度となく全てを投げ出す夢想に浸り、自分には才能がないのではと嘆いた事は数えきれない。それにつけても毎回これだけの苦しみを伴いながらも、何故映像制作の現場から抜け出さないのか。いつもそんな葛藤が頭をもたげる。しかし思う。それは、映像が私にとって自己表現の手段だからなのかもしれないと。自己を表現する悦び。それはしばしば自己満足と言われるのかもしれない。しかし表現する者は皆、その自己満足を、人々の共感に変えていきたいと望んでいるのではないか。共感に変わったときの無上の悦びと達成感を知ってしまた者は、苦しみを知ってもそう易々とそこから足を踏み出すことは出来ない。そしてまた思う。私にとって映像とは、麻薬のようなものなのかもしれない。

用語説明
1『CS 放送』:comminication satelite 通信衛星、衛星放送用に供するトランスポンダを搭載した衛星を放送衛星(broadcasting satelite) というのに対し、通信用に供するものを通信衛星と称し、それぞれBS,CSと略す。
2『ノンリニア編集』:non linear 非線形、素材等を装置上で編集するシステムのこと。
3『絵コンテ』:構成画面をコマ割りして、絵にしたもの。コンテはcontinuity(台本)の略。
4『MA 作業』:multi audioの略。音声ダビングの編集。MAという言葉の語源は日本で開発されたMA-VTRから派生した日本独自の呼び方であり、世界的にみると、audio sweeteningとかaudio dubbing といった呼び方をしている。
5『ミキサー』:mixer, 音声(画像)調整装置、またはその仕事をする人。

相川陽子
1976年生
明治学院大学文学部芸術学科映像学・映画論専攻
現在映像制作会社に勤務
東京在住