全ての人は冒険家

2002/12/11 Wednesday 06:24 | Le Pont

人は皆、生まれた時から何時の時も、冒険家である。そしてまた、その人の数だけ、冒険はある。ただ、山に登り、見果てぬ土地に行くことだけが冒険ではない。なぜならあなた方はどれほど自身の仕事の、生活の、家庭の全貌を見通していると言うのだろう。見えない世界を今正に歩いているではないか。

映像の演出は、創造の冒険と精神の冒険。

創造の冒険と精神の冒険、近年の私自身の生活はその言葉につきる。物を一から造るということが努力と苦労を伴うことなどは、想像するまでもなくこれまでも理解していたし、私が言うまでもなく周知の事実であろう。分かってはいるのだけれど、、、その後の言葉をサラリと口に出すこともしがたい、そんな苦しい日々が続いている。全くゼロの状態から頭の中のあやふやなイメージを具現化しようとする。しかしその具現化において、既存の表現方法を流用することは演出を志す人間として不本意である。その過程においても、しばしば結果においても、ある意味では曖昧に分類されるであろう演出と言うクリエイテイブ職のカテゴリーの中では、何が成功で何が失敗だとはかることができない。時には見る者の価値観やセンスによって評価が天地ほど変わることもあるだろう。安心も絶対もない、確かな答えを知ることができずとも、身の丈ほども生い茂る草をなぎ倒し道を造り、自身が信じたその道を一歩一歩進んでいくのだ。それは正に創造の冒険。この創造の冒険が精神に課す負担・重圧は、それはそれは言葉にしがたいものがある。肉体的には戦闘体勢をまだ十分保っていられるのに、精神のモチベーションが保てなければ自ずと肉体自身の言うことを聞かなくなる。精神のモチベーションを保つやり方は人それぞれ違っているだろうけれど、今の私にはそれすら明確な手段がない。「そんなに苦しいのならもうやめればいいのに。」それなのに私は、頭を抱え、疑問と苦悩を拭いされぬままいつも、また新しいものを造ることをやめようとしない。休む間もなく作品を造ることに追われ、このまま肉体も精神も使い物にならなくなってしまうまで私はやり続けるというのだろうか。それはいわば精神の冒険。自分自身への挑戦。

今私の目の前に立ちはだかるその創造の世界は温かく甘美なものでも、大いなる悦びでもない。安易に私を受け入れようとしない、冷たい真っ暗なブラックホールにすら見える。それでも私は明日もまた、そこに飛び込む。危険と知りつつも。それが私の冒険。そしてその冒険は人それぞれ皆、違う形で持っているものである。

>>>このコーナーでは、毎回、空さんから送られてくるEmailメッセージを掲載したいます。






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