古里の道

2005/09/18 Sunday 01:58 | Kaléidoscope, Le Pont

「雨ふるふるさとははだしであるく」 山頭火

私は長い間、いつかこの句を実現させたいと願っていた。

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私が京都の西陣から丹波の田舎へ疎開したのは、昭和二十年の六月である。国民学校の二年生だった。菅原道真を祭る北野天満宮近くの白梅町から、福井県へ抜ける周山街道へ入る。京都府北桑田郡の中心部である周山町まで、およそ三〇キロの距離になる。曲がりくねった山道は省営(現JR)バスで二時間近くを要した。
疎開先の宇津村は、さらに脇道へ馬ヶ背峠を越して行く。約四キロの急坂を、歩いて一時間はかかった。村は大阪湾へ注ぐ淀川の源流に近い大堰川に沿って、二百戸ばかりの農家が点在する小さな集落だった。そこで、私は戦後の七年間を過ごすことになる。四方を山に囲まれ、狭い田畑が断続的に続く宇津村は、山頭火の故郷と大差はなかったと思う。村道は、たまに通るトラックがすれ違えないほども狭い。そのうえ、凹凸の激しい砂利道だった。だが、やはり生まれて七年間を暮らした西陣の街に次いで、宇津の里は私にとって第二の古里なのである。

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五十数年の歳月が流れて当時の村は統合され、名称も京北町と変わり、かつての村道は国道に昇格した。道幅は拡張され完全に舗装されている。石ころだらけだった道より、今ははるかに歩きやすい。しかし、アスファルトの道をはだしで歩くのは、少し恥ずかしい気がする。いくら雨が降っていても変に思われるだろう。私の願望は、今では気持ちの中だけのものとなってしまったようである。
五月の末の日曜日に、宇津小学校の同窓会が開かれた。恩師の勝山隆男先生はすでに古希を過ぎ、喜寿には少し間のある七十五歳を迎えられた。その長寿の記念を兼ねて、教え子の六学年が合同で計画したものである。
先生は昭和二十二年に就任され、四年生の私たちが初めての担任だった。その後、八年間で六つの学年を教えられた。その教え子の最初の卒業生は、もう六十八歳になる。最後の卒業生を送られたのが昭和三十一年で、彼らでさえも五十歳半ばに達している。だが、私たちの母校は平成十一年に残念ながら廃校になった。
それぞれの学年で開く同窓会はまちまちである。二十四年卒の私たちも、この前の会合から十年が過ぎている。卒業以来、一度も開催していない学年もあるそうだ。先生の教え子たちは全員で百四十名にのぼる。すでに亡くなったり、住所不明の者が十五名になる。奥様の綾乃先生の担任も一学年あり、ご夫妻でお招きする計画になっていた。
迎え梅雨なのか、三日間降り続いた雨は止んだが、日曜日の朝はまた少し雨が戻った。念願の、古里の道をはだしで歩く絶好のチャンス到来である。周山街道の笠峠はトンネルが開通し、現在はJRバスで一時間ばかりの距離になった。私は同級生の法栄さんと二人で、川本君の自家用車に便乗させてもらった。
舗装された道路は極めて快適である。二つ目の栗尾峠を越えると、周山の手前の細野から宇津へ入るバイパスが完成している。昔はバスと徒歩で三時間はかかったコースが、今は一時間で着いてしまう。周山からの馬ヶ背峠を越えることはなく、雨もいつの間にか上がっていた。やはり私は、はだしで歩くチャンスを逃してしまった。そして、道中はずいぶん便利になったが、道行く人の姿をほとんど見かけることがなかった。

小学校へはわら草履を履いて通学した。下ろしたての草履は香ばしいわらの匂いがして、しっとりと朝露を吸った。草履は農家の夜なべの自家製である。非農家のわが家では近所から分けてもらった。女の子用の草履は、鼻緒に赤い端切れが編みこんであった。草履は外側から減り始めるので、学校の帰り道には左右を履き替える。雨が降れば、腰にぶら下げて歩いた。
凹凸の激しい砂利道は、足の裏が痛い。それでも、小石や土の感触がそこから全身に伝わった。道の両側の窪みに雨水が溜まり、どこから来たのかアメンボウが泳いでいた。時には、トノサマガエルが顔を出すこともある。ついイタズラを繰り返し、雨の日は家へ帰るのが遅くなったものだ。道端では、四季ごとに様々な雑草が花をつけた。そのころの村道は動物や植物で溢れて、毎日を生きていた。
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同窓会は七十名が出席して、大いに盛り上がった。母校の校庭で記念撮影をした。木造校舎はコンクリート製に変わっていた。その壁面にはめられた電気時計だけが、空しく時を刻んでいる。運動場の隅にあった桜の大木は、すでに伐られていて跡形も無かった。
会合が終わったころ、村はすっかり暮れていた。会場の周囲は賑やかでも、道を行く人はまるでいない。古里は昔よりずっと静かになった。立派になった道は、アスファルトの下で死んでしまったのか。私が古里の道をはだしで歩くことは、もうないだろう。
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上野道雄

1938年、京都西陣に生まれる。
疎開先の口丹波で7年間を過ごす。立命館大学法学部卒。
㈱高島屋勤務。15年前から人材会社を経営。
現在、京都コンピュータ学園・情報大学院大学グループの人材会社 ㈱KCGキャリアに勤務。






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