往年の雪

2002/10/10 Thursday 07:59 | Le Pont, Traversée du Pont

ケーンは並外れて大きな、逞しい男だ。アメリカ市民の典型と言えるセルフメイドマンだ。良き市民、いやすぐれた市民であるケーンは、莫大な財産を所有していた。彼は全てを持っていた。財を蓄え、何でも買えた。人間だって買えた。出版、工業、芸術、全ての領域に彼の姿はあった。まさにグザナドウ-寺院にいる生き神様だった。彼は国の名士であった。彼の国はアメリカであるから、つまり世界に君臨しているわけだった。
巨人ケーンは、ほぼ神である。だが、ほぼ神という存在は、全く神でないとも言える。自由という装飾の下には、有限性と弱さしかない。だが映画の最後にならないとそれはわからない。騙されやすい私達は、人間の輝かしい勝利に居合わせる事を疑いもしない。ウエルズのことをよく知らないからだ。
巨人ケーンは、強すぎる。だから人は彼にみとれると同時に嫌いもする。そして最後には愛着を感じるようになる。そしてもっと早く好感を持たなかった事を後悔する。でもそれはケーンの弱さが最後にしか表れないからだ。愛する時にはもう遅し、である。ケーンの最後の姿で全てがわかる。今まで心の底でわかっていた事を改めて実感する。時に権力をふるえない限り、物にも権力はふるえないのだと。プロメテウスでさえ、明かりが時にむさぼられるのを妨げられなかったではないか。言い換えれば、不安を感じないわけにはいかない。火があっても全ての影からは逃れられない。横たわったケーンはすでに死んでいる。青白く凛々しい姿は、墓石の横臥像のようだ。左手には土産屋で売っているような何かを握っている。雪景色の閉じ込められた小さなガラス玉。ここで映画の最初、ケーンが少年時代を思い起こすシーンが思い出される。雪スベリをして遊んでいたケーン。貧しすぎる両親が面倒を見切れなくなったケーンを、ある男に引き渡す。泣きじゃくるケーンは、一生分の涙を流してしまったのではなかろうか。大人は忘れてしまっている事、子供時代・母親・我が家がどんなに大切で壊れやすく、はかないものであるのかをケーンは知っていた。バラのつぼみのように。それを半分だけなくすなんてことはあり得なかった。永遠に失ってしまうのだとケーンは知っていた。雪合戦の雪の玉を投げていた手には今、青白い雪景色をまねた球が握られていた。少年時代の雪は溶けてしまった。が、冷たさをなくした雪は彼の手に残っていた。最初から本能でわかっていた事を、改めて理解するのに一生をかけたケーン。良心に基づく思考回路が世の現実に突き付けられて、結局は時が全てであるのだと。ケーンの人目に触れた人生をいくつものシーンで見せる事でウエルズは私達を退屈させるが、その裏にはもっと私的な、永遠へのかなわない願望があるのだと気づかせる。|

たったひとつの考え
一番恐ろしい考え[...]
恐怖で私達を覆い尽くすもの[...]
それは、死だった。[...]

ノバリス『夜に捧げる詩』より

オールソン・ウエルズの市民ケーン

「バラのつぼみ」シャルル・フォスター・ケーンが死の床でつぶやいたこの一言は、何を示しているのか。権力にのみ気をとられた男のイメージとは結びつかない言葉だ。そこであるジャーナリストが、ケーンを知る人々と対談しながらこの言葉の謎を解き明かそうとする。が、結局大した事はわからず、真実にはたどりつけない。このジャーナリスト兼伝記作家はそこでやめてしまう。全てが始まる所で放棄してしまう。ある登場人物が言ったように、どの行為も「どの言葉もその人の人生を説明するにはいたらない」のである。大切なのは、アクションに取り巻かれ、隠され、時には明かされる隠れた筋を見つけだすことだ。人の行為の理由は決して本筋から離れてはいないとウエルズは示す。そこでこの映画は普遍的になり、本質に触れる作品になり、いつの時代の人々にも訴えるものがあるのだ。だからダンテの作品や、トロワのキリスト教徒やプラトンのソクラテス称賛のように研究の対象になり続けているのだ。

オールソン・ウエルズ

アメリカ人、監督及び俳優(1915-1985)
主な映画作品『市民ケーン』(1940)、『アンベルソンの栄光』(1942)、『上海の女』(1947)、『マクベス』(1947)、『オセロ』(1952)、『悪の渇望』(1957)、『訴訟』(1962)

セルジュ・サントラ

1968年生
ヴァンヌ在住
バイオリン奏者 






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