シェルブールの雨傘
のっけから挑戦的な物言いになってしまうが、フランスはミュージカル後進国だと思う。いや、映画はともかく、演劇に関しても、芸術的な価値あるものか、ブールバール劇のような大衆向けのものかに二極分化したがり、例えばテレンス・マクナリー作の『マスタークラス』のような傑作劇も、ファニー・アルダンのスター芝居に仕立て上げてしまう。演出がロマン・ポランスキーだというのに、だ。
ミュージカルに関しては、自分たちにはオペラ・コミックという独自の文化がある、との誇りが、ブロードウェイやウエストエンドの作品など 認めるわけにはいかないという思いにつながってしまったのか、が、21世紀を迎え、そうとばかりも言っていられないと関係者が気づいたらしく、序々にフランス産のミュージカルも産出し始めているけれど、作品の規模と劇場の規模がチグハグだったり、バックでのべつまくなしにダンサーが踊っていたり、とても洗練の域には達していない。
そこで思い出すのが作曲家ミシェル・ルグランの存在だ。彼と同世代の他の音楽家同様、アメリカのジャズの洗礼を受けたルグランの音楽の粋々は、様々な映画音楽でもお馴染みだし、彼が本気で舞台ミュージカル化に取り組んだ『壁抜け男』は日本でもブロードウェイでも上演され、一部では高い評価を受けた。もちろん、一番舞台化にふさわしいと思われる『愛のイエントル』のように「何度も企画としてあがったけど、(映画版の主役と監督の)バーバラ・ストライサンドの許可が下りなかったんだよ」(ルグラン談)と、実現しないものもあったが、彼の作品にはフランスのミュージカル黎明期を牽引するヒントが隠されていると思う。
中でもジャック・ドゥミ監督とのコンビ作『シェルブールの雨傘』『ロッシュフォールの恋人たち』の絶対的な輝き!特に、登場人物の台詞が全編歌という前者に関しては、今もって「真似したくてもできない」と告白するミュージカル関係者もいるほどだ。考えてみれば、ストーリーはとても単純だし、音楽も各人の人物のテーマ曲が決まっているかの如く、繰り返しが多いし、しかも、主役のカトリーヌ・ドヌーブは本当は歌ってなかったりもするのだが、そこにドゥミ独特の色彩感覚とカメラワークが絡んで「シェルブール」という実在の街を、おとぎ話の中の架空の町に変えてしまう。母娘で傘屋を営むヒロインの側も、より貧しいという設定のニーノ・カステルヌオーヴォ扮する恋人の家も、日本映画や戦後のイタリア映画に描かれたようなリアルな貧困が感じられないことが、かえって2人の秘めた恋の先行きを、不安なものにしているとも言えるだろう。
戦後へと赴く彼を乗せた列車が往く線路。偶然、彼の営むガソリン・スタンドに寄ってしまったヒロインの車の行く雪の中の道
2人で歩むはずだった人生の道が、ルグランの裏切きわまる音楽に彩られ、より一層の孤独を感じさせる。これ、(日本の舞台版はあるが)本気でルグラン、舞台化する気はないのかな?
映画評論家 佐藤友紀
シェルブールの雨傘
港町シェルブールで女手一つで細々と傘屋を営む母親のもと、美しいヒロインはつつましやかに暮らしている。彼女の美貌に惹かれた事業家が、プロポーズを受けてもらえることと引きかえに、窮状を救おうと申し出、母親の方はすっかりその気になるが、彼女は首をたてにふらない。
ヒロインには、思いがけないことから知り会った恋人がいた。彼の方も、病気の母親をかかえ、生活には困窮していたけれども、彼女に会う時間だけが楽しみだったのだ。
そんな日々の中、男に兵役招集とアルジェリアへの出兵命令が下り、2人はベッドを共にしてしまう。恋人が不在の間、妊娠に気づいたヒロインの前に、「お腹の子供も含めて、あなたの面倒をみたい」という件の実業家が再度現れるのだった‥‥‥
有名な主題曲を始め、全編、ミシェル・ルグランの音楽で綴られたジャック・ドゥミ監督の代表作の一つ。今見ても色合いがポップだ。