母
私はたびたび母のことを考える。
一緒に暮らしたのはわずか十年間。
しかも記憶にあるのはたった五、六年。
母は三十三歳の若さで病死した。私は十歳。
父や親戚らは悲しんでいた。
私は「死」を理解できなかった。
悲しんだ記憶はなかった。
ただ途方もなく大きなものが無くなってしまったことだけはわかった。
私の幼少時は終戦後間もない頃で食料、生活用品が絶望的に不足していた。
配給制の暮しだった。
保育園の時にしばらくの間母の実家秋田県に行ったと聞かされた。
母を記憶しているのは小学生になってからだ。
明るい性格で愚痴を言わず手に入るものを最大限活用しながら私たちを育ててくれた。
「お砂糖が手に入ったから飴を作ってあげるわね」
「このきれいな花柄の生地であなたたちの浴衣作ろうと思うの…….」と明るい声が響く。
相変わらず物は不足していたがそれでも少しずつ様々なものを目にするようになった。
昭和二十年代後半の頃だ。国産品は言うまでもなく輸入食品も店頭を飾った。
服装も西洋風になっていった。
現代的だった母は積極的に新しいことを取り入れた。
昼ご飯は学校から家に戻った。
トーストパンを焼きバターとハムをのせて、牛乳と砂糖入り紅茶を用意してくれた。
母は躾に厳しかった。
昼食に急ぐあまり上履きのまま帰った時は学校に戻され、靴に履き替えて家に戻ったものだ。
「おやまあ〜また上履きのまま!早く履き替えて戻ってきなさい!」と。
特に長女の私は厳しく躾けられた。
何かした後にはいつも「ありがとうね」と言ってくれた。
芝居や映画に連れて行ってくれた。 ちんぷんかんな洋画が後で「風と共に去りぬ」だと分かった。
幼い私は流行の先端を行く母を誇りに思っていた。
帽子がよく似合う。
「このベレー帽素敵でしょ!」という声がよみがえる。
「お父さんと相談して子供部屋に二段ベットを取り付けることにしたのよ、外国はみんなベットで寝るの……」「うん」と私。
そんな母に病気が襲いあっという間に亡くなった。
私は母がいなくてもずっと言い付けを守った。
勉強や妹、兄の面倒をみた。
勿論家事の手伝いも。
私はこうして母の仕事の一部を担いながら成長していった。
いつも母を感じ母に育てられていると想像するのが好きだった。
「おねちゃんのチーコはしっかり者だから安心よ」とよく言った。
二倍以上の年齢を重ねた自分が三十代の「母親をおもう子の心」となり不思議な気持ちに恋しさが交ざる。
長い間、母の日には「亡き母を偲ぶ」白いカーネーションを仏壇に飾っていた。