フランスへの苦難の道、あるいは戦前最後のフランス政府給費留学生―湯浅年子の場合(1909-1980)

2005/09/18 (��) 05:10 | Kaléidoscope, Le Pont

第二次大戦後も、フランス政府から日本の学生に提供される給費のおかげで、1950年から今日に至るまでフランスの大学で勉学する機会に恵まれた人たちはかなりの人数にのぼるであろう。最近は、毎年、どのくらいのフランス政府給費留学生(以下、ブルシエと略記)が選ばれるのか正確に知らないけれども、戦前のブルシエ数に比べればその数は著しく膨れ上がっていることはたしかだといえる。というのも最初のブルシエが派遣された年、つまり1932年から戦前最後のブルシエが渡仏した1940年までは、すべての部門を含め, ほんの5-6名の留学生が選ばれるにすぎなかったことが、戦前のブルシエたちの残した証言からあきらかになっているからだ。そのため、戦前のフランス政府のブルシエたちは、厳選されていたのだった。
この小文では、1939年度にブルシエに選ばれた人たち、とりわけ理数系の女性給費留学生第一号となった湯浅年子(1909-1980)を紹介してみたい。

湯浅は渡仏前の自分を振返って、次のように回想している。

「私がフランスへ来たいと思い立ったのは1937年頃のことで、大学を出て3年くらいたったときであり、そうなると、矢もたてもたまらないわがままさから、1度に数人の先生についてフランス語をはじめた。教職にあり、研究室にも行っていたから、主として夜活躍するわけだが、アテネ・フランセや、その近くに住んでいて東京外語の講師をしておられたボネ嬢や、日仏会館の秘書をしていたO氏に習うかたわら、フランスの美術史について少し知識を得るためというので入門したのが赤松夫人というフランス婦人だった」(1)。

「[前略]音楽家を除いては女子は私以前には例がないということもあって、通るという当てはなかったが、私はどうしても通りたいと希っていた。」そしてその頃の日記に仏文でこう記したという。

「私の頭は段々固くなってくる。曽てはもうすこしはっきりしていた頭脳はどこへ行ったのか。昨日私はY嬢に一緒に『狭き門』を訳さないかと誘った。それを彼女は断った。何故だろう。きっと私には出来ないと思ったのだろう。多分彼女の思うとおりだろう。私は身も心もすっかり衰えて来た。しかし私は何としてでも高揚しなければならない。もしまだそれが全くおそすぎないならば」(2)。[以上は湯浅自身による訳文を引用]。

このように、湯浅は猛勉強したにもかかわらず、筆記試験はパスしたが、口頭試問でしくじったと当時を回想している。(因みにこの年、合格したのは、後の言語学の川本茂雄教授(早大)とフランス文学の鈴木力衛教授(学習院大)らだったという)(3)。

翌年(1939年), 湯浅は再度、留学生試験に挑戦し、晴れて合格した。同年度の合格者には理数系の湯浅年子と井上正雄の他に、文学部門では、笹森猛正、加藤美雄、片岡美智子らがいた(4)。
フランス政府から「生命の保証をしない」という条件つきで、留学の許可が湯浅にようやくおりたのは1940年のはじめだった。ナチス・ドイツがフランスに戦線布告をし、侵略してきたのは1940年のことで、ペタン(1856-1951)政府から休戦協定をかちえていた。

湯浅の回想するところによれば、毎月、彼女に支給される給費は1500フランで、この額はレオン・ブルム(1872-1950)が人民戦線内閣を組閣した年(1936年)以来、すえおかれたままだったという。
1936年から1938年まで、文学部門のブルシエとしてパリに留学した小場瀬卓三(1906-1977)の『巴里だより』によれば、ブルムの人民戦線内閣成立(1936年)以後、フランス・フランは年々、下落の一途を辿り、当時の月額給費1500フランでは暮らせない 、とフランス外務省に増額を要求するブルシエがいたが、聞き入れられなかったとある(5)。

湯浅のパリでの学生生活については最初、ブルヴァール・サン=ミシェルBd Saint-Michelにあった女子寮 Foyer international des etudaintes に宿泊した。その後、夫人のイレーヌ・ジョリオ=キュリとともに1935年度ノーベル化学賞に輝いたフレデリック・ジョリオ=キュリ Frederic Joliot-Curie (以下ジョリオ=キュリと略記)が所長を務める原子力研究所に通っていた。

しかし、差し迫るドイツ軍のフランス入城を前にして、湯浅はもうひとりの女子ブルシエ(片岡美智子)とともにパリを離れ、ボルドーへ行った。というのも、当時、ボルドーには同期のブルシエ加藤美雄がひと足先に疎開していたからだった。二人の日本人女性が加藤の下宿先を訪ねたことは加藤自身の手記にも記されている(6)。

周知のように、「奇妙な戦争」(市川注:フランス側のナチス・ドイツに対する消極的参戦からこの戦争はこのように称された)が長引いていたので、ボルドーにいたのでは戦争の進捗がさっぱりわからなかったため、どうしても研究を続行したい湯浅は、どうせ戦争で死ぬのならパリでも同じだと考えて、彼女はジョリオ=キュリに手紙をだした。ジョリオ=キュリからは電報ですぐに戻ってくるようにと言ってきたという。そこで、二人の日本女性はパリに舞い戻ることになった。

けれども、ジョリオ=キュリからの電報の内容については、加藤にはふせてあったようで、その一部始終を知らない加藤はボルドーでできる限りの面倒をみたにもかかわらず、パリへとんぼ返りする二人にあきれていたようだ(7)。

ジョリオ=キュリの研究所に留まる決心をした湯浅は他の研究員とともに、ドイツ軍がいつなんどきパリに入城するかもしれないという状況下で実験等を続けていた。

前出の小場瀬卓三の記録では、理数系の博士号をいち早く取得したのは、数学の矢野健太郎だったとのことだ(1938年)が、湯浅女史も1943年にはベーター・スペクトロメーターの研究により国家博士号を取得した(8)。

彼女は、日本の敗戦の直前の1945年、ソ連経由で帰国し、女史を東京で待っていた母親との再会を果たすことができたが、母は彼女の帰国後僅か20日間で他界した(9) という。

戦後の1949年には、これまたジョリオ=キュリの肝いりで再度、渡仏し、以前と同じく、オルセ原子物理研究所で研究生活を再開したが、1980年2月1日にパリで永眠した。

1980年2月6日付の仏紙「ル・モンド」は、フランス国立科学研究所名誉研究員としての湯浅年子の死を報じている(10)。


1)湯浅年子『ら・みぜーる・ど・りゅっくす―パリ随想―』(みすず書房、1973年刊)。p.20.
2)湯浅年子『る・れいよん・う゛ぇーる―続・パリ随想―』(1977年刊)。pp.206-207.
3) 湯浅年子『むすか・のわーる―パリ随想3―』(1980年刊)。pp.239-240.
4) 加藤美雄『わたしのフランス物語 / 第二次大戦中の留学生活』(編集工房ノア、1992年刊)。p.30.
5) 小場瀬卓三『巴里だより』[非売品]. (白水社、1990年刊)。p.207.
6) 加藤美雄前掲書p.157.
7) 同上。p.170.
8) 小場瀬卓三前掲書。p.301.
9) 湯浅年子『ら・みぜーる・ど・りゅっくす―パリ随想―』p.324.
10) Le Monde du 6 fevrier 1980.
(Tokyo, le 9 novembre 2004- le 22 avril 2005).

市川慎一

1936年 東京都赤坂区、青山に生まれる。
1963年 早稲田大学文学修士号。
1966年~1969年 フランス政府給費留学生としてモンペリエ大学人文科学部にてジャック・プルースト教授の指導のもとに第三期課程を修学。
1970年より早稲田大学政治経済学部講師、助教授、文学部助教授をへて、1980年よりフランス文学・比較文学教授。
2001年フランス政府教育功労賞授勲
1983年以降世界各地で講演をして現在に至る。