魅力的でバラエティーに富んだ街、大阪
神秘の権化ともいえる日本の中心を訪れるからには、街路から街路へさらにその先へと誘い込む都市の不思議な道筋に身をゆだね我を忘れるすべを心得ておく必要があろう。大阪はその努力に十分応えてくれる。日常にしっかり根を下ろした輝かしい現代と昔からの伝統とがみごとに調和した大阪の街。決して打算によるものではなく、恋愛結婚のように両者は仲良く共存している。 商売の街であり、魅力的な街でもある大阪は、なんと言っても気前がよく、実に街らしい街といえる。住民はもとより、滞在を少し伸ばしたいという賢明な旅行者にも喜んでもらおうと、大阪の街は何事にもノンとは言わず、野心をはっきり示し、強い独自性を主張している。歴史的建造物、活気ある市場、伝統工芸,デパート、下町の屋台、日本の都市の静謐な姿をそこに見出そうとするなら、先ず、ツアーで寺にどっと攻め入る団体客から離れることである。それには、いつもの月並みなプランを捨てて、ぶらぶら散歩するのが一番いい。その時の気分や成行きに任せ、自由気ままに散策しながら、時代の空気を味わい、時には過去にタイムスリップする。
今でも、よく思い出すのは、太陽の光がさんさんとふりそそぐある夏の日のこと。私は朝早く京都から大阪に向かった。既に京都は活気に満ちていたが、私の降り立った大阪の街は静かで落ち着いていた。北の到着駅から南の天王寺公園まで急がずゆっくりと歩いた。これほどシンプルですばらしくバラエティーに富んだ散歩をしたことがない。上を向いて歩きながら、私は発見に発見を重ねた。まるで街が歓迎の手を差し伸べてくれるかのようである。行ってみたい美術館・博物館、黒澤の映画に出て来るような城、疲れを癒してくれる公園、憂愁を誘う河、気分を一新させてくれる劇場、ウインドウショッピングの商店街(時には財布の紐をゆるめることも…)、珍種を集めた植物園、想像もつかないような魚のいる水族館、日本の労働界を覗かせてくれる工場見学、鶴橋の旧市場、難波の大規模ビル街…。多すぎて選ぶのに困ってしまう。
アドバイス: 偶然の出会いに任せ、街のさまざまな香りやざわめき、沈黙を味わうといい。公園や遊歩道の草花、小潅木の香り、露天商の呼び声、ミュージック・セリエル張りの市場の喧騒、そして街の静寂(そう、大阪でも味わえる)、公園、美術館の涼しい展示室。その時、じつにゆっくりと、今まで味わったことのないような感覚が拡がっていく。それは忘れられたブーケ、幸せのブーケのような何か。
大阪の気前の良さはガイドブックでは見つからない。それは住民の微笑みにあり、この歌うようなアクセントにあり、培われたセンスや個性を持った大阪人の生きる喜びにある。慎みと敬意の念をもって旅行者は心から歓迎される。
アートや歴史ファンが急いで大阪城、東洋陶磁美術館、藤田美術館、民族博物館、大阪市立美術館に飛び立つ時、他の人達は文楽劇場の奥義に我を忘れ、あるいはまた日本工芸館などへと出かけて行く。食通は首都の料理とはかなり違う大阪料理に舌鼓を打つに違いない。大阪には楽しみが仰山詰まっている。要は時間と何をしたいかである。今日なお、本物とつつましさが息づいている大阪。この美点は、他の街ではとうの昔に失われてしまった。
豊かな伝統に恵まれ、経済的・文化的にも重要な役割を果たしている大阪は、特に私から見ると(そして私の記憶の中でも)、すばらしく生き生きした街である。愛着を感じる。博物館的な街ではなく、豊かで人々に愛され、良く遊び、よく外出する街。この点、東京とはずいぶん違う。というのも、大阪弁、料理の味付け、生活のリズムなどさまざまな価値観がすでに南に属しているからであろう。ここには季節感がまだ存在している。春や秋はさぞ見事なことだろう!
結局、最後のすばらしい一時、私は文楽を観に行った。窮屈なソワレとは全く異なり、興行は昼間、早くに始まる。家族や友だちと連れ立って観にいくのが普通で、観客は好きな時に桝席を立ったり、大きな声で論評したり、笑ったりしている。要するに気楽に観に行くのである。人形の厳粛な美しさ(人形のリアルな命のパラドックスについて書いたクライスト[ドイツの劇作家]の有名な一節が脳裏をかすめる)に、この時ほど魅了されたことはない。一方には見える物と見えないもの、光と影、技術と優雅の戯れによる崇高さがあり、他方には我々西洋人が気後れしてしまうような大阪人の生きる喜び、けた外れの陽気さ、一瞬戸惑うが、すぐに魅惑されてしまう彼らの気質がある。
大阪はほんとうに例外的な街である。自分の心で発見する街である。ここには訪れる人を変身させるようなエネルギーがある。他人に対する見方やある種の世界観のようなものが私の中で変わった。京都から神戸に行く途中に立ち寄った大阪で、私は予想外の平和と喜びを味わった。大阪には、人間的で気前のいい現代社会が今なお存在している、という印象(幻想ではない)を受けた。このようなクオリティーの輸出ができたら…
エレーヌ・エルヴュー
ドイツ語教授、現在翻訳家:ドイツ語・ノルウエー語からフランス語へ。
パリ在住
(イラストレーション: 岩本晋司)